カタユリ日記

思ったことをそのまま書きます。ツイッターより長い文章はこちらに。

キルケゴール『死に至る病』についてのまとめ

キルケゴールの『死に至る病』を読み頭の中で整理していましたが、色々と入り組んでいたのでブログにメモ帳代わりに書いておきます。

自分用です。

 

「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は、自己をそ措定した力(=神)のうちに、透明に、根拠をおいている。」(p18)
これが彼における信仰の定義であり、『死に至る病』で述べたいテーマなのであろう。

「その信仰こそ、わたしがこの書物全体において、あたかも航路標識をめざすように、それを目ざして舵をとっているものなのである。」(p151)


そしてその自己は自己自身と関係して自己となる。その関係を媒介する第三者としての存在が神だ。(例えば自分の姿を見ようとする場合、人は鏡を見る。その鏡と成りうる存在が神という概念。自分で自分を省みる際にはそれを映しだす存在が必要である。)

「自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。」(p15)

「それ(=自己)自身に関係する関係が他者によって措定されたのである場合には、その関係はもちろん第三者ではあるが、しかしこの関係、すなわち第三者は、やはりまたひとつの関係であって、その関係全体を措定したものに関係している。」(p16)

 

キルケゴールからすれば、自らが自己自身であるためには神を媒介として彼の言う「信仰」を目指さなくてはならない。そして、それに至らない状態を「絶望」であるとし、その絶望の分類をする。

逆説的ではあるが、キリスト教は「罪」という概念を設けたことにより、そこから自らの絶望を自覚し、信仰に至ることが出来るのだと説く。

キリスト教を最も決定的に異教から質的に区別させる概念こそ、罪であり、罪についての教説なのである。」(p165)

「罪とは、神の前で、あるいは神の観念をいだきながら、神の前に絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、絶望して自己自身であろうと欲することである。」(p141)

 

彼にとってそうした信仰は神の前で「単独者」として行われねばならない。

この本の編者はその意図を汲み取って、次に「現代の批判」を置いたのではないかと推論する…

 

肝心の「絶望」についての詳細はまた後日まとめる。(というより自分でもまだまとまってない)

 

今は取りあえず彼の他の著作を読んでみたいという衝動が勝っているため、そちらを優先する。

ゆったりとしたゲームがしたい

最近ゲームをする頻度が上がっている。

大学時代は「わざわざ高い金を払って進学してるんだから、出来る限り勉強しなければ…」と思い、罪悪感で中々出来ずにいたが、地元に戻った今となってはそれが薄れ、徐々に高校以来のゲームをする生活に戻りつつある。

今プレイしているのは「ルーンファクトリー4」

素材を集めながら敵を倒したり、街にいる女の子の親愛度を上げるゲーム。

そこまで進んでないが結婚もできるらしい。誰にするかはまだ決めてないけど。

 

この手のゲームは作業になることがほとんどなのですぐに飽きるかなと思ったけど、意外とまだまだ遊べる感覚がある。

自分はボーっとしながら延々と作業をするのが良いらしい。仕事じゃなければこういうのは好きなのかも。ドラクエポケモン等のRPGもレベル上げが全く苦じゃないしね。

 

今はこのゲームをやっているから良いけど、クリアして落ち着いたらまたこういうゲームがしたい。

テラリアとマインクラフトは一人だと辛そうだけど、simsなんかは面白そう。

自分と同じ性格属性を付けて、後はよっぽどおかしい行動をしない限りは放置して、それを眺めるだけ。

ドラクエ3をやっていた時、旅をしている間にパーティメンバーでそれぞれどういう掛け合いをしていたのかを想像しているのが好きだったんだけど、simsはそれが出来そう。

ただゲームハードで出てるsimsが悉くバグなんかで評価が低いのでPC版で買うことになるんだろうけど、今使ってるノーパソで対応できるかどうか…無理そう…

 

自分が知らないだけで他にもこの手のゲームは転がってそうだし、まだまだ遊びつくせそうだね。

 

まぁ、先の事を考えるより、今やってるゲームをしますか…

 

思ったことをダラダラ書いただけでしたが、これで終わりです。

迷惑をかけたくない人

唐突だが、「人に迷惑をかけたくない」と言う人は好きじゃない。

その言葉は、その人の「自分の行動で相手に良い影響を与えることが出来る」という思考が透けて見えてしまうからだ。

(余談だが、その台詞から「自分の行動が他者の迷惑になってしまう」と思っている可能性もあるので、その人の自尊心の低さも垣間見える…)


はっきり言って、迷惑に思うかどうか、もっと言えば自分に好意を持ってくれるかどうかも、自分ではなくて相手が判断することだ。
基本的に自分は「私はこういう人間です」としか言えないのだ。

それを聞いて好意を持てばお互いに近寄っていけば良いし、無理ならば距離を置いて付き合うか、最悪縁を切るしかない。

嫌な例えだが、就活での面接みたいなものだ。

受験者が面接官に「私はこういう人間です」ということをアピールし、受け入れられたら採用(お近づき)、受け入れられないならば不採用(距離を置かれる)。

ただこれでしかない。自分の側からは相手に自分の事を無理やり好きにならせることは出来ないのだ。

(ただし面接とは違って、相手が自分を判断するように、自分も相手を判断することが出来る。)


別に相手に気を遣うこと自体は悪い事ではない、しかしそれはお互いの気心が分かってからだ。

気心が分かってからなら、自分の側からの気遣いが相手の意に適う確率が高まるし、相手からも「今までの付き合いで自分をちゃんと見てくれたんだ」と思えるだろう。


「人に迷惑を~」と言う人の気遣いは大抵順序が逆で、まだ気心を知れていない間に勝手に色んな事をしようとするからいけない。

例えその気遣いが相手の好むものであっても、まだ分からない相手に私的領域に踏み込まれたりして、良い気持ちはしないはずだ。

まずは自分の事を伝え、同時に相手の事を知る。距離を近づけるのはそれからでいい。

相手に「忖度」して気を遣いすぎても、余計に関係をこじらせるだけだ…

後輩と『鈴木先生』

鈴木先生』という漫画、個人的には面白かったんだけど、以前後輩に見せたら「登場人物がグダグダ悩み過ぎっすよ」と言われ、「合わない」とすぐ返されてしまった。
確かにその通りではあるんだが、あれは主人公の鈴木先生自身が作中で述べていたように一定の思想の軸を持っていない人間だからだろう。

思想の軸がないからこそ、その場その時の状況に合わせて様々な可能性を勘案し、最善だと思われる行動を採っていく。
それが鈴木先生の特徴であり、漫画のキモでもあったはずだ。

しかし、その後輩は特定の思想を信奉していて、「死ぬまでこの思想を守って生きていく」と宣言してさえいた。
そういう人間にとってみれば、鈴木先生の行動はナヨナヨした思考・行動に見えるのであろう。実際作中内でも、彼の行動は常に余裕がなく、周りの人間に振り回されてばかりなのだから…

けれど、『鈴木先生』という漫画が伝えたいのは「思想を持ち合わせていない人間は振り回されてばかり」ということなのだろうか。
むしろ、後輩の様な既に固まった思想を持ち合わせていない人間(読者)に対して、「こういう生き方もある」と教えているのではなかろうか。
今まで普通に生きてきて、いきなり「○○主義的に生きる」なんてことは無理だ。けれど、「その時その時に一番良いと思われることを考えながら行動する」ことは、難しい事ではあれ、決して不可能ではないはずだ。
鈴木先生が作中の様々な人物と掛け合いをすることを通して伝えているのはこうしたことであると、自分は思っている。

話を最初に戻すと、『鈴木先生』という漫画は曖昧な言い方になるが「思想を信奉していない世間一般的な人間」を想定しており、だから既に思想的に生きると心を決めていた後輩は、その漫画に対して反感を持ったのだろうと感じた。
ただ、後輩がそのことを言うことによって上記の内容が浮き彫りになったのは有益なことだったろうとも思う。

ブログを始めました。

こんにちは、カタユリと申します。

内容としては表題のとおりです。

ツイッターの方をやっていますが、時々発作が起こって長文を連投するという行為を行っていたので、そういった文章はこちらに移行していこうかなと思い立ち、始めさせていただきました。

ただ今後続くかどうかは自分の気分次第です。面白いと思ったら書き続けるでしょうし、飽きたら書かないでしょう。

それについては今後様子を見て…という感じでしょうね。

 

グダグダと書きました。恐らくこんな感じで記事を書いていく事だろうと思われます。

気楽に見たり見なかったりして下さいね。

 

それでは宜しくお願い致します。